ネグレクト・ネガティブ はじめに
最近、自分は根暗だったんだ、と思うことがある。
大学生の時。
電車が遅れて大学の講義に5分遅れで教室に到着したときに、教室の扉に手をかけて帰ったことがある。
これは一度や二度ではない。5分の遅れで、85分を投げた。
「遅れて入るからにはすごすごと申し訳なさそうに入らなくてはいけないだろうか」とか色々と考えると目線が怖くなって帰った。
すぐに帰るわけでもなく図書館に籠って読みたくもないジャンルの本を手に取った。
そんなことをするなら帰って好きな本を読みかえしたほうがいい時間の過ごし方に違いない。
しかし教室に向かう選択肢はない。「色々葛藤はあったけど来ました」と心の裏を透かされるような気がして、その日はそのコマのチャイムと同時に帰った。
帰り道、すれ違う人に「なにしに行ったの?」と聞かれてしまうよう気がして恥ずかしくなった。誰がぼくを知ってるわけでもないのに。
しかしその時のぼくは講義にもでていなかった為。大学生でもないただの放浪者が大学生らしい服を着て、さも大学生の顔してるのであるから当然である。誰がぼくを大学生と知ってるわけでもないのに。
中学一年生の時。
入学する前に兄から「三年間で生徒指導室にさえ行かなければ高校受験でどうにかなる」と忠告を含んだ教えをもらった。
しかし入学して6日か7日で小学校のときからの友達と一緒に生徒指導室にいた。
その日はぼくを含めた友達3人で先生が来るまでのあいだ、黒板消しを叩きまくって遊んでいた。
なぜそんなことをしたかというと、小学校の時には思いつかなかったからである。
楽しいことをしたかった。
それは不思議な体験だった。怒られているのに入学してから最速で特別になれた気がしたし、兄からの注意勧告に謎の勝利感を得た。
いまの自分ならこの行動がすごくもどかしい。思いついたからといってやるにはあまりにも理性がない。
きっと明るく居たかったんだろう、と。そう思ってならないのだ。
寒いのに「寒くない寒くない」と言うのは寒いからである。暑いときにはそんなことは言わない。
きっと明るくいたかったし、元気に居たかったんだろう。
本来は一人でいるのが好きなのだが。
今まで生きてきた中で人の目を気にせず生きなかったことはない。
こういったことを思うのは、ぼくは自分のことを「ネガティブ」だと思っているからである。
変な目を気にするし、そういったことにまたうんざりする自分がいる。
しかしいま、ネガティブでいることや、ひとりぼっちでいることはもうどうでもよくなっている。
誰もぼくのことなんか見ていないし(この感覚がすでにネガティブなのだが)、見ていたとしてもどうでもいい。
この日記では私が日頃感じる変なネガティブなことや、共感できるネガティブ、また私にある「人の目を気にする心との付き合い方」である「どうでもいい」と思う生き方をここで吐き出せれば、と思う。
ネガティブとはどこから生まれるのだろう。自分からか、果たして人から植え付けられるのか。はたまたはなから存在しないのだろうか。
この日記も、読んでいてつまらないだろうなと思いながら書いている。
もちろん、そんなことは知らないし、どうでもいいのだが。